出会い

出会い

人は誰もが幸福でありたいと願っています。
しかし、
「私は何が起きても絶対に変わることのない幸福の中にいます」
と言い切れる人が世の中に何人いるでしょうか。
そもそも、そのようなことがあるのでしょうか?
僕自身もずっとそれを知らないでいました。

僕はこれといった才能もない凡人ですが、あるとき運良くお金をたくさん持つことができました。その結果、いま思えばただ恥ずかしいだけですが、俗物がお金を持つとどうなるかという典型的な例を歩みました。
不相応な豪邸を建てたり、あるときは何年もゴルフだけをして過ごしていました。
では、それで幸せになったかというと、結局そこにはなにもありませんでした。
こういうことに早く気づく賢い人もいれば、僕のようにそれに気づかないで人生の大半を棒に振ったような阿呆もいます。

やがて僕はあるとき、
「どうしたら人は幸福になるのか」
という教えに出会いました。
それはあまりにも衝撃的で、僕の人生を根底から変えてしまいました。
そしてやがてその教えは自分の中に少しずつ染み込んでいったのです。
その結果、いまはスーツケースひとつに収まる程度のものしか持たず、ワンルームに住んでいるけれど、昔の生活に戻ろうとは1ミリも思いません。
おそらくあなたもいま何かの苦しみや不安を持っているでしょう。
そこまで明確でなくても、あなたは心の奥底で、自分に何かが欠けていることを知っています。
または言葉にならない微かな不安のある状態で過ごしているかもしれません。
なぜなら、すべての人は何かしらそのような状態にあるからです。
それはいくら成功しようと、お金を持とうと、健康でいようと、幸福な家庭を持っていようと同じことです。
そのようなものは、少しはあなたを楽しませてくれるかもしれませんが、なにひとつあなたを真の幸福にすることはありません。

そのことに気づくきっかけとなったのは、あるインドの聖者の言葉でした。

監獄の中

監獄の中

ある日、暇つぶしにネットサーフィンをしているとき偶然に、あるインドの聖者の映像が現れました。
その人はとても美しい顔立ちで、思わず見惚れていると、その人はこう話し始めたのでした。

「あなたたちは監獄の中にいます」

この一言を聞いた瞬間、僕は心がドクンと震えるような衝撃を受けました。
そして、その聖者はこう話を続けたのです。

「あなたたちは監獄の中にいます。
あなたは、本当はそのことを知っています。
でもあなたはそこが監獄には見えないよう、きれいなカーペットを敷き、美しい壁紙を貼り、居心地のいいソファを置いています。
さらに、退屈しないようにテレビを置きます。
気持ちよく過ごせるよう、エアコンをつけます。
観葉植物や絵画で部屋を飾ります。
あなたは一生懸命、この部屋を快適にしようとします。
そして人生の大半をお金を得るために費やし、そのお金を使ってあれやこれやと気を紛らわせます。
あなたの人生とはそのようなものです。
それはそれで問題はありません。
続けたければ、どうぞ続けなさい。

でも、あなたは監獄の中にいます」

僕はこの人が何を言っているのか、ハッキリとわかりました。
そしてその時から、その「監獄」の外に出ることだけが僕の望みとなったのです。

僕はすぐに、この師の元で学ぶためにインドに向かいました。

インドへ

インドへ

インドに着くと、そこは混沌とした別世界でした。
車道は一応二車線のラインが引かれていますが、誰もそんなものは気にしていません。三台も四台もぐちゃぐちゃになって走っています。
舗装道路が途切れると、泥道になり、人と一緒に牛が歩いています。
裸の子供が遊んでいます。
香辛料の匂いが漂ってきます。
そんな混沌とした世界なのに、妙に落ち着くような、懐かしいような、なんともいえない心地よさがありました。
そんな風景を眺めながら、その聖者の元に着きました。

そこでは多くのことを学びました。
そしていくつかの奇跡体験はあったのですが、僕が望んでいたのはそのようなことではありませんでした。
ただ「監獄から出る」ことだけを望んでいたのです。
しかし、そのことは起こりませんでした。
心の状態はここにきたときのままです。
やがてもう数日で帰国するという日になっても、それは起こりません。
焦りと失望でなんとも言えない惨めな気分になりました。
もうヤケクソになった僕は、
「おい、神さまとやら!
オレはこんなところまで来て、何ヶ月もここにいるのに、あんたは何一つ起こせないないじゃないか!
あんたはほんとにいるのか?
あんたが本当にいるんなら、いるという証拠を見せてみろ!
どうせできないんだろう、バカヤロー!」
と心の中で毒づきました。
そして、もうどうでもいいや、結局何も起きないんだ、と完全に諦めたのでした。

これは後になって師から言われたことです。
「神さまというのは、あなたたちが思っているような仰ぎ見るものではないのです。
神さまは、あなたが隠している虚栄心、嫉妬、嘘、執着、貪欲さ、自己重要性、ズルさ、そういうことはすべて分かっています。
神さまが求めているのは、そんなことへの贖罪や反省ではありません。
神さまが待っているのは、ただ、あなたが友達のように語りかけることだけなのです。
そして、あなたが自分では何もできないのだと完全に諦め、ほんとうに自分を明け渡したときにはじめて、神さまの恩寵が流れ込むのです」

その翌日の講義を終えて、庭に出たときでした。
突然、これまで体験したことのない不思議な感覚に包まれて、それに呑み込まれたのです。
それはいきなり違った次元に連れていかれたようで、しばらく何が起きたのかわかりませんでした。
やがて少し落ち着いてくると、とても穏やかな歓びがあって、世界を遠くから眺めているような感覚です。
そして目の前にある樹々も、建物も、人も、自転車も、花も、犬も、空も、道も、ゴミ箱も、すべてが、たったひとつの意識の現れだと、はっきりと感じたのでした。
その意識というのはまさに神さまそのもので、すべてが神さまで、神さま以外のものは何ひとつないのです。
ただ「神さま」だけが形を変えて存在しています。
世界がそのようなものだということは大きな衝撃でした。

しかしまだ何か奇妙な、説明できない不思議な感じが残っていました。
しばらくその「神さまが形を変えて現れている世界」をぼんやりと見ていると、やがてその理由に気がついたのです。
それは、それらを見ているものもまた「神さま」だということでした。
神さまはそのようにあらゆるものに形を変えて世界として現れていながら、その現れを、僕という身体を通して自分自身で見ているのです。
つまり、この世界には「神さま」だけしかないという、おかしなことなのでした。

このことがひとつの契機となって、さまざまな理解が始まりました。
そしてその後数年間、日本とインドを行き来しながら師の元で学び、さらに何人かのインドの聖者から多くのことを学びました。
彼らは身体としてはすでに存在していませんが、その教えは時を超えて僕を変えていったのです。

投網

投網

わたしたちが赤ちゃんのときには、
「お母さんがもうお乳をくれなかったらどうしよう」
とか
「コロナにかかったらどうしよう?」
というような不安や心配はありませんでした。
ところがわたしたちの成長とともに脳も発達し、それにつれて「マインド」と呼ばれるものが徐々に大きくなってきました。

マインドとは、わたしたちの内側に湧き起こるさまざまな考えや思考のことです。
このマインドは人間が生きていくために必要なものです。
マインドがなければ、自立して生きていくこともできませんし、いまのような文明や文化をつくることもできません。
ですからマインドそのものには何も問題はありません。
それは単なる道具です。
たとえば、漁師にとっての投網のようなもので、投網を使うことによって楽にたくさんの魚を獲ることができます。

ところがいつの間にかその投網のほうが大きくなって、逆に人間がそれにからめ捕られた状態になってしまいました。
やがてわたしたちはこのマインドの中に包み込まれ、常にマインドというベールを通して世界を見るようになります。
そしてありのままの世界はベールに覆い隠され、その代わりにマインドという本来は道具に過ぎなかったものの創り出す世界が、わたしたちの世界そのものになっていきます。

そして、そのマインドを通して見る世界の中で、怖れがはじまり、不安がはじまり、心配がはじまり、ありとあらゆる苦しみが始まるのです。

わたしの空気

わたしの空気

では、このマインドの正体は何なのでしょうか?
実は、このマインドというのは、あなた固有のものではありません。
たとえば「嫉妬」というマインドがあります。
ところがあなたの「嫉妬」も、あなたの両親の「嫉妬」も、その祖先の「嫉妬」も、ドイツ人の「嫉妬」も、四千年前のエジプト人の「嫉妬」も、「嫉妬」は「嫉妬」です。
嫉妬だけではなく、怖れ、怒り、悲しみ、心配、渇望、執着、不満、失望、葛藤、貪欲さ、自己重要性・・・ありとあらゆるマインドの働きはすべての人間に共通しています。
古代人は明日の獲物の数を心配していたのが、現代人は明日の口座の額になっているだけです。
何ひとつ新しいものはありません。
マインドは、こうして何万年もかかって膨張し生き続けてきた、人類全体に共通の「想念帯」なのです。

さらにこのマインドはあなたの脳が生み出すものでさえありません。
脳は単なる受信器です。
そこにマインドが絶えず流れ込んでいるために、まるであなた自身に固有のマインドがあるように錯覚します。
たとえば、人はずっと呼吸をし続けていますが、あなたは自分が吸ったその空気を「わたしの空気」と言うでしょうか。
自分がかかったインフルエンザを「わたしのインフルエンザ」と言うでしょうか。
「わたしの空気」とか「わたしのインフルエンザ」というものがないように、「わたしのマインド」というものもありません。

あなたが自分の考えや想念だと思ってきたものは、何ひとつあなた固有のものではないのです。

ラベル貼り

あなたは電車に乗り遅れそうになって、大急ぎで駅へ走っています。
必死で階段を駆け上がったけれど、目の前で電車のドアが閉まってしまいました。
「あーも〜、どうしよう!」
次の電車は三十分後なので、あれほど楽しみにしていたコンサートの開幕にはもう間に合いません。
あなたはすっかり落胆してしまいます。
しかたなくプラットフォームでぼんやりしていると、しばらくして、先ほど出て行った電車が脱線事故を起こしたという案内が入ります。
あなたは思わず安堵に浸ります。
「ああ〜、乗らなくてよかった〜」

しかしここで起きているのは何でしょうか。
それは電車が出て、プラットフォームにあなたがいる、ただそれだけのことです。

このようにマインドはあらゆることに意味を持たせ、ラベルを貼ります。
実のところ、あなたがお金持ちになろうが、職を失おうが、コップの水がこぼれようが、結婚しようが、道で転ぼうが、病気になろうが、ピザを食べようが、雨が降ろうが、死のうが、財布を落とそうが、それはそれ以上の意味はありません。
それらに意味を付け加えているのはマインドです。
マインドはものごとにラベルを貼り、意味を与え、物語を作ります。
やがてわたしたちはその物語の中で生きるようになります。

さらにマインドはより確実に生き残るために、人生そのものに意味や目的を与えようとします。
家族のため、子供のため、人のため、会社のため、社会のため、というようなことからはじまって、国家のため、地球のため、神のため、というような壮大な目的まで考え出します。
しかしそれがいかに意味ありげに見えても、すべての意味付けは単なる「マインドのおしゃべり」なのです。

漁師

漁師

スペインのある小さな村に漁師がいました。
彼は好きな時間に起きて、漁に出ます。
戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタをします。
そして夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって一日が終わるという生活でした。
ある日、バカンスに来ていた金持ちの男がその漁師のそばにやってきて言いました。

(男)やあ、すばらしい魚だね。毎日どれくらいの時間、漁をしているの?
(漁師)ほんの一時間くらいさ。オレとオレの家族が食べるにはこれで十分だから。
(男)へぇ。でも君は魚釣りが得意なようだね。せっかくならもっと働いてみたらどうだい?
僕はハーバード大学でMBAを取得して、そして自分で会社を大きくしてきたから、きみにいろいろとアドバイスできると思うよ。
いいかい、きみは毎日もっと長い時間、漁をするべきだ。部下を雇ってもっと売り上げがでたら最新設備のボートも買ったほうがいいね。
(漁師)ほー、それで?
(男)そうしたら仲介人に魚を売るのはやめて自前の水産品加工工場を建てて、ビジネスを大きくするんだ。
やがてはこの村を出て都会へと進出していくといい。そしてきみはオフィスビルから企業の指揮をとるんだ。そうすれば老後もお金ができるよ。
(漁師)なるほど、そうなるまでにどれくらいかかるんだい?
(男)二十五年、いや、頑張れば二十年でそこまでいくね。
(漁師)へぇ、それからどうなるの?
(男)そしたら引退して、海岸近くの小さな村に住むんだ。日が高くなるまでゆっくり寝て、日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごす。そして夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。
どうだい、すばらしいだろう!

脳外科医

脳外科医

ある高名な脳外科医がいました。
彼は神さまと強い絆で結ばれていました。
そして困難な手術があると神さまに心の中で助けを求め、神さまはいつもそれに応えて手術の方法を示してくれるのでした。
このようにして、彼は非常に優秀な医師として尊敬されていました。

あるとき、彼の執刀を見学するために世界中から医師が集まりました。
ちょうどひとりの男性が事故にあって病院に運び込まれました。
執刀に当たった彼が頭蓋骨を開いてみると、脳は酷い損傷を受けていました。
手術は困難を極め、彼は神さまに、これまでそうしてきたように助けを求めました。
「どうかこの人の奥さんを悲しませないように、彼を助けてあげてください!」

ところが答えがありません。
彼はもう一度頼みます。
「この人には子供が四人もいるのです。もしこの人が亡くなったら、奥さんも子供も路頭に迷ってしまいます。子供たちにはこの人が必要なのです!」

でも神さまの声はありません。
時間だけが過ぎていき、このままだと患者は間もなく死んでしまいます。

そのとき彼は、自分の心の中の真実に気がつきます。
そして彼は正直に神さまに話しました。
「わたしは、奥さんや子供のことなどよりも、手術が成功して自分の名声を守ることが大切なのです。だから助けてくたさい!」
そのとき突然、神さまの声が聞こえ、教えがやってきました。
そして手術は成功しました。

わたしたちは自分の醜さを知っていますが、決してそれを見たくありません。
だからわたしたちがつく嘘のほとんどは、実は自分自身に対してなのです。
でも神さまは、わたしたちの正直さを愛しているのです。

抱っこ

抱っこ

あなたがまだ母親のお腹の中にいるときは、いつも神さまにすべてを委ねていました。
すべては完璧で、何ひとつ欠けるものなく、世界はあなたとひとつのものでした。
ところが、あなたは母親から分離し、やがて自分で何かを考えはじめ、その考えに基づいて行動しはじめました。
それはたしかに生きていくために大切なことです。
しかし必要以上に、自分で自分自身の面倒をみなければならないと思いはじめたのです。

やがてあなたは何でもかんでも自分でしようとして、神さまの光が徐々に届かなくなってしまいました。
そしていつの頃からか、人生は問題だらけになっています。

赤ちゃんが母親に抱っこされているとき、
「こういう姿勢のほうがもっと安全にいてもらえるはずだ」
と自分であれこれ努力しはじめたらどうでしょう。
きっと母親は困ってしまいます。
赤ちゃんが何もせず完全に母親に身を委ねたとき、母親は赤ちゃんを一番安全に抱くことができます。

同じように、あなたが自分で何かをしようとすればするほど、神さまはあなたを守りにくくなります。
あなたがすることは、神さまを信頼して身を委ねることだけです。
力を抜いて、明日のことを思わず、ただ静かにすることができれば、神さまは完全にあなたをその胸に抱いてくれます。
そのときあなたは、また赤ん坊のような笑顔で人生を生きはじめるのです。

ディクシャ

ディクシャ

目覚めのための《恩寵》がどのような形で起きるかは誰にも予測ができません。
でも、あなたの真我がほんとうにそれを願うとき、それは必ず起こります。

それを受け取るひとつの方法に《ディクシャ》というものがあります。
《ディクシャ》とはサンスクリット語で「伝授」を意味し、スピリチュアルな伝統の中で、マスターが弟子に授けるイニシエーションです。
それは目で見たり、手で触れたり、音を聴いたり、さまざまな形で伝授されます。
そしてどのような形を取るにせよ、この《ディクシャ》は受ける者に聖なる《恩寵》を与えます。

僕も初めてディクシャを受けたときのことは忘れられません。
受けたときはまったく何も感じなかったのですが、その夕方からだんだん体がだるくなり、早々に寝てしまいました。
ところが真夜中に突然「ピー!」という音がなって飛び起きました。
最初は外で誰かが警笛でも鳴らしているのかと思ったのですが、じっとしていると、自分の頭の中が鳴り響いているのです。
それは強烈な耳鳴りのような音で、しばらくすると鳴り止むと思っていたのですが、いつまでたっても鳴り止みません。
そして翌日から、突然理由のない至福感が押し寄せてきて、とめどもなく涙が溢れきました。
それが一週間以上も続き、やがて自分の内側が明らかに変化しはじめたのでした。

このように《ディクシャ》は、ただ与えられるものです。
あなたが正統な《ディクシャ》を受けることができれば、あなたの世界は必ず変わります。
すべてのことはあなたにとって最適な形で起きます。
そしてあなたは「目覚め」へと向かうのです。

足あと

足あと

わたしたちの人生を返ると、偶然の出来事がたくさん見つかります。
ちょっとした偶然の一致もあれば、中には「奇跡」と呼べるものもいくつかあるかもしれません。 
そのようなとき、わたしたちは自分の理解を遥かに超えたものの存在を感じます。
その存在に気づきはじめると、わたしたちは自分の力で生きているのではないことを知るようになります。

ある人が、神さまと砂浜を歩いていました。
その人は神さまに尋ねます。 
「あなたは、わたしが生まれてからずっと一緒にいてくれたのですよね」
神さまはにっこりと微笑んで、その人にこう言います。
「そうだよ。振り返ってごらん」
砂浜を振り返ると、ふたりの足あとがずっと続いています。 
「ほんとうだ。あなたはいつも一緒にいてくれたんだ」 

ところが、ところどころひとりの足あとしかないところがあります。
それはちょうどその人の人生の中で、とても苦しくて辛い時間でした。
その人は尋ねます。
「でも、わたしがとても苦しいときや辛いとき、どうしてあなたは一緒にいてくれなかったのですか?」

神さまは答えます。
「あれはあなたの足あとではなく、私の足あとだよ。
あなたが苦しさや悲しさで自分ひとりでは歩けないとき、私があなたをおぶって歩いていたんだよ」

いのちのダンス

いのちのダンス

わたしたちは何ひとつ持たずにこの世に生まれてきて、何ひとつ持たずにこの世を去っていきます。

それでも世界はわたしたちにたくさんの美しい姿を見せ、そのひとときを祝福してくれるようです。

鳥たちは今日もまた空を舞い、歌います。
樹々は今日もまた風にそよぎ、花を咲かせます。
彼らは何かになろうともせず、何かのイメージを装うこともなく、神さまに身をゆだねてダンスをしながら、
そのあふれる恩寵の中で
見事に生き、
見事に死んでいきます。

あなたは、あなたの歌を歌うために生まれてきたのです。
あなたは、あなたのダンスを踊るために生まれてきたのです。
あなたが踊れば、神さまが踊ります。
世界が踊ります。
すべてのいのちがあなたと手をとってダンスをはじめます。
そのときあなたは、
花になり、
香りになり、
風になります。

そしていのちはひとつになり、
永遠のダンスの中で、
あなたは、
あなたを思い出すでしょう。

幸せが目覚めるとき

あなたがこのブログを見た理由はひとつです。
それは、僕の師が言われた言葉がそのままその答えになっています。

「あなたが苦しんできた理由はたったひとつです。
それを体験する必要があったからです。
そしてあなたの準備ができたときに、あなたはこの教えと出会います。
その瞬間からあなたの苦しみは消え始めます。
そしてこれまで苦しみが占めていたスペースに、溢れるほどの幸福が流れ込むのです。」

あなたがこのページを開いたのは、あなたの準備ができたからです。
僕自身には何の力もありませんが、僕が教わった「教え」は途方もないパワーを持っています。
この教えは、宗教でもなく、組織を作ることでもなく、ただただ人を幸福にするためのものです。
それは永遠に変わることがない幸せになる唯一の教えでもあり、もしかしたらあなたが辿り着く終着点と言ってもいいかもしれません。

あなたとの出会いに感謝し、そしてあなたがほんとうの幸せに目覚めることを願って。

亜紀です。
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Produced by Divine Grace

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