すべての生きとし生けるものは、幸福であることを願っています。
あなたもこれまでずっとたくさんの努力をされてきたと思います。それらはすべて「幸福になるため」ではなかったでしょうか。
しかし、何があろうと揺らがない「完全な幸福」にある人が世の中にいったい何人いるでしょうか?

おそらくあなたもいま何かの苦しみや不安、怖れを持っておられると思います。
経済的なこと、健康面のこと、家族や職場での人間関係、将来への不安感、付きまとう罪悪感、過去のトラウマ、生きている意味や自分の使命がわからない、など。
そこまで明確でなくても、あなたは心の奥底で、自分に何かが欠けていることを知っています。または言葉にならない微かな不安のある状態で過ごしているかもしれません。
なぜなら、すべての人は何かしらそのような状態にあるからです。
それはいくら成功しようと、お金を持とうと、どんな能力を得ようと、健康でいようと、幸福な家庭を持っていようと同じことです。
そのようなものは、少しはあなたを楽しませてくれるかもしれませんが、なにひとつあなたを真の幸福にすることはありません。
なぜなら、「不変の幸福がある場所」を誰も教えてくれなかったからです。
本来ならすべての人が知っておくべき真実を誰一人知らされていないのです。
ただその真実を知らないことで、私たちは一生迷いながら、もがき続けなければならないのです。

私は師のHARUさんから、幸福というものは誰もが本来持っていて、私たちの存在の根源にあるのはまさに幸福そのものであるのに、ほとんどの人はそれが眠っていて顕在化していないだけだということを教わりました。
これまでにあなたがどのような人生を送って来られたとしても、今どのような悩みや苦しみを持っておられようとも、それらには一切関係なく、HARUさんの教えはあなたの「真我」を目覚めさせ、確実に「生まれながらにして持つ真の幸福」に導きます。
また、スピリチュアルな学びを長年されているにも関わらず、“本当のあなた”に辿り着けないと感じている方も、確実にこの教えはあなたを最後の終着点に導きます。

このHARUさんの唯一無二の教えを通じて、あなたが「不変の幸福」に目覚められることを心から願っています♪

《 寺田亜紀プロフィール 》
福岡生まれ。高校卒業後10年間社会人として働いた後、5才から続けていたバレエの講師として15年間で2000人以上の指導をする。
20才の時に偶然ある僧侶より瞑想を授けられ、以来25年間瞑想を実践する中で数々の不思議な体験や奇跡を経験する。
そしてスピリチュアルな師・HARUさんから教えられた真理を一人でも多くの方と分かち合うためにディヴァイン・グレースを開設する。

こんにちは、亜紀です。
私は師のHARUさんから「幸福」というものは誰もが本来持っていて、私たちの存在の根源にあるのはまさに幸福そのものであるのに、ほとんどの人はそれが眠っていて顕在化していないだけだということを教わりました。
これまでにあなたがどのような人生を送って来られたとしても、今どのような悩みや苦しみを持っておられようとも、それらには一切関係なく、HARUさんの教えはあなたの「真我」を目覚めさせ、確実に「生まれながらにして持つ真の幸福」に導きます。
また、スピリチュアルな学びを長年されているにも関わらず、“本当のあなた”に辿り着けないと感じている方も、確実にこの教えはあなたを最後の終着点に導きます。

このサイトは、HARUさんのこれまでのエッセイをまとめたものです。
定期的に更新していますので、時折ご覧いただけるとうれしいです。
このHARUさんの唯一無二の教えを通じて、あなたが「不変の幸福」に目覚められることを心から願っています♪

聖なる恩寵が降り注ぐ

ディクシャ

内なる幸福に目覚める

ディヴァイン瞑想

スピリチュアルな学びの終着点

HARUさん個人セッション

《 寺田亜紀プロフィール 》
福岡生まれ。高校卒業後10年間社会人として働いた後、5才から続けていたバレエの講師として15年間で2000人以上の指導をする。
20才の時に偶然ある僧侶より瞑想を授けられ、以来25年間瞑想を実践する中で数々の不思議な体験や奇跡を経験する。
そしてスピリチュアルな師・HARUさんから教えられた真理を一人でも多くの方と分かち合うためにディヴァイン・グレースを開設する。

⬅︎ 僕のエッセイ集「いのちのダンス」はAmazon Kindleでお読みいただけます。
※ Kindle Unlimitedでは無料でお読みいただけます。
おかげさまで、Kindleの4ジャンルでダウンロード数・1位をいただきました。

HARUさんのエッセイ集「いのちのダンス」はAmazon Kindleでお読みいただけます。
※ Kindle Unlimitedでは無料でお読みいただけます。
おかげさまで、Kindleの4ジャンルでダウンロード数・1位をいただきました。

HARUさんのエッセイです。定期的に更新しています。

HARUさんのブログです。
定期的に更新しています。

ある日、暇つぶしにネットサーフィンをしているとき偶然に、あるインドの聖者の映像が現れました。
その人はとても美しい顔立ちで、思わず見惚れていると、その人はこう話し始めたのでした。
「あなたたちは監獄の中にいます」
この一言を聞いた瞬間、僕は心がドクンと震えるような衝撃を受けました。

そして、その聖者はこう話を続けたのです。

「あなたたちは監獄の中にいます。
あなたは、本当はそのことを知っています。
でもあなたはそこが監獄には見えないよう、きれいなカーペットを敷き、美しい壁紙を貼り、居心地のいいソファを置いています。
さらに、退屈しないようにテレビを置きます。
気持ちよく過ごせるよう、エアコンをつけます。
観葉植物や絵画で部屋を飾ります。
あなたは一生懸命、この部屋を快適にしようとします。
そして人生の大半をお金を得るために費やし、そのお金を使ってあれやこれやと気を紛らわせます。
あなたの人生とはそのようなものです。
それはそれで問題はありません。

続けたければ、どうぞ続けなさい。

でも、あなたは監獄の中にいます」

僕はこの人が何を言っているのか、ハッキリとわかりました。
そしてその時から、その「監獄」の外に出ることだけが僕の望みとなったのです。
僕はすぐに、この師の元で学ぶためにインドに向かったのでした。
はじめて行ったインドは、混沌とした別世界でした。
車道は一応二車線のラインが引かれていますが、誰もそんなものは気にしていません。三台も四台もぐちゃぐちゃになって走っています。
舗装道路が途切れると、泥道になり、人と一緒に牛が歩いています。
裸の子供が遊んでいます。
香辛料の匂いが漂ってきます。
そんな混沌とした世界なのに、妙に落ち着くような、懐かしいような、なんともいえない心地よさがありました。

そんな風景を眺めながら、その聖者の元に着きました。

そこでは多くのことを学びました。
そしていくつかの奇跡体験はあったのですが、僕が望んでいたのはそのようなことではありませんでした。
ただ「監獄から出る」ことだけを望んでいたのです。
しかし、そのことは起こりませんでした。
心の状態はここにきたときのままです。
やがてもう数日で帰国するという日になっても、それは起こりません。
焦りと失望でなんとも言えない惨めな気分になりました。
もうヤケクソになった僕は、
「おい、神さまとやら!
オレはこんなところまで来て、何ヶ月もここにいるのに、あんたは何一つ起こせないないじゃないか!
あんたはほんとにいるのか?
あんたが本当にいるんなら、いるという証拠を見せてみろ!
どうせできないんだろう、バカヤロー!」
と心の中で毒づきました。
そして、もうどうでもいいや、結局何も起きないんだ、と完全に諦めたのでした。
これは後になって師から言われたことです。
「神さまというのは、あなたたちが思っているような仰ぎ見るものではないのです。
神さまは、あなたが隠している虚栄心、嫉妬、嘘、執着、貪欲さ、自己重要性、ズルさ、そういうことはすべて分かっています。
神さまが求めているのは、そんなことへの贖罪や反省ではありません。
神さまが待っているのは、ただ、あなたが友達のように語りかけることだけなのです。
そして、あなたが自分では何もできないのだと完全に諦め、ほんとうに自分を明け渡したときにはじめて、神さまの恩寵が流れ込むのです」
その翌日の講義を終えて、庭に出たときでした。
突然、これまで体験したことのない不思議な感覚に包まれて、それに呑み込まれたのです。
それはいきなり違った次元に連れていかれたようで、しばらく何が起きたのかわかりませんでした。
やがて少し落ち着いてくると、とても穏やかな歓びがあって、世界を遠くから眺めているような感覚です。
そして目の前にある樹々も、建物も、人も、自転車も、花も、犬も、空も、道も、ゴミ箱も、すべてが、たったひとつの意識の現れだと、はっきりと感じたのでした。
その意識というのはまさに神さまそのもので、すべてが神さまで、神さま以外のものは何ひとつないのです。
ただ「神さま」だけが形を変えて存在しています。
世界がそのようなものだということは大きな衝撃でした。
しかしまだ何か奇妙な、説明できない不思議な感じが残っていました。
しばらくその「神さまが形を変えて現れている世界」をぼんやりと見ていると、やがてその理由に気がついたのです。
それは、それらを見ているものもまた「神さま」だということでした。
神さまはそのようにあらゆるものに形を変えて世界として現れていながら、その現れを、僕という身体を通して自分自身で見ているのです。
つまり、この世界には「神さま」だけしかないという、おかしなことなのでした。
このことがひとつの契機となって、さまざまな理解が始まりました。
そしてその後数年間、日本とインドを行き来しながら師の元で学び、さらに何人かのインドの聖者から多くのことを学びました。
彼らは身体としてはすでに存在していませんが、その教えは時を超えて僕を変えていったのです。
わたしたちが赤ちゃんのときには、
「お母さんがもうお乳をくれなかったらどうしよう」
とか
「コロナにかかったらどうしよう?」
というような不安や心配はありませんでした。

ところがわたしたちの成長とともに脳も発達し、それにつれて「マインド」と呼ばれるものが徐々に大きくなってきました。

マインドとは、わたしたちの内側に湧き起こるさまざまな考えや思考のことです。

このマインドは人間が生きていくために必要なものです。
マインドがなければ、自立して生きていくこともできませんし、いまのような文明や文化をつくることもできません。
ですからマインドそのものには何も問題はありません。
それは単なる道具です。
たとえば、漁師にとっての投網のようなもので、投網を使うことによって楽にたくさんの魚を獲ることができます。
ところがいつの間にかその投網のほうが大きくなって、逆に人間がそれにからめ捕られた状態になってしまいました。
やがてわたしたちはこのマインドの中に包み込まれ、常にマインドというベールを通して世界を見るようになります。
そしてありのままの世界はベールに覆い隠され、その代わりにマインドという本来は道具に過ぎなかったものの創り出す世界が、わたしたちの世界そのものになっていきます。
そして、そのマインドを通して見る世界の中で、怖れがはじまり、不安がはじまり、心配がはじまり、ありとあらゆる苦しみが始まるのです。
では、このマインドの正体は何なのでしょうか?
実は、このマインドというのは、あなた固有のものではありません。
たとえば「嫉妬」というマインドがあります。
ところがあなたの「嫉妬」も、あなたの両親の「嫉妬」も、その祖先の「嫉妬」も、ドイツ人の「嫉妬」も、四千年前のエジプト人の「嫉妬」も、「嫉妬」は「嫉妬」です。
嫉妬だけではなく、怖れ、怒り、悲しみ、心配、渇望、執着、不満、失望、葛藤、貪欲さ、自己重要性・・・ありとあらゆるマインドの働きはすべての人間に共通しています。
古代人は明日の獲物の数を心配していたのが、現代人は明日の口座の額になっているだけです。
何ひとつ新しいものはありません。
マインドは、こうして何万年もかかって膨張し生き続けてきた、人類全体に共通の「想念帯」なのです。
さらにこのマインドはあなたの脳が生み出すものでさえありません。
脳は単なる受信器です。
そこにマインドが絶えず流れ込んでいるために、まるであなた自身に固有のマインドがあるように錯覚します。
たとえば、人はずっと呼吸をし続けていますが、あなたは自分が吸ったその空気を「わたしの空気」と言うでしょうか。
自分がかかったインフルエンザを「わたしのインフルエンザ」と言うでしょうか。
「わたしの空気」とか「わたしのインフルエンザ」というものがないように、「わたしのマインド」というものもありません。
あなたが自分の考えや想念だと思ってきたものは、何ひとつあなた固有のものではないのです。
スペインのある小さな村に漁師がいました。
彼は好きな時間に起きて、漁に出ます。
戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタをします。
そして夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって一日が終わるという生活でした。
ある日、バカンスに来ていた金持ちの男がその漁師のそばにやってきて言いました。
(男)やあ、すばらしい魚だね。毎日どれくらいの時間、漁をしているの?
(漁師)ほんの一時間くらいさ。オレとオレの家族が食べるにはこれで十分だから。
(男)へぇ。でも君は魚釣りが得意なようだね。せっかくならもっと働いてみたらどうだい?
僕はハーバード大学でMBAを取得して、そして自分で会社を大きくしてきたから、きみにいろいろとアドバイスできると思うよ。
いいかい、きみは毎日もっと長い時間、漁をするべきだ。部下を雇ってもっと売り上げがでたら最新設備のボートも買ったほうがいいね。
(漁師)ほー、それで?
(男)そうしたら仲介人に魚を売るのはやめて自前の水産品加工工場を建てて、ビジネスを大きくするんだ。
やがてはこの村を出て都会へと進出していくといい。そしてきみはオフィスビルから企業の指揮をとるんだ。そうすれば老後もお金ができるよ。
(漁師)なるほど、そうなるまでにどれくらいかかるんだい?
(男)二十五年、いや、頑張れば二十年でそこまでいくね。
(漁師)へぇ、それからどうなるの?
(男)そしたら引退して、海岸近くの小さな村に住むんだ。日が高くなるまでゆっくり寝て、日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごす。そして夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。
どうだい、すばらしいだろう!
あなたは電車に乗り遅れそうになって、大急ぎで駅へ走っています。
必死で階段を駆け上がったけれど、目の前で電車のドアが閉まってしまいました。
「あーも〜、どうしよう!」
次の電車は三十分後なので、あれほど楽しみにしていたコンサートの開幕にはもう間に合いません。
あなたはすっかり落胆してしまいます。
しかたなくプラットフォームでぼんやりしていると、しばらくして、先ほど出て行った電車が脱線事故を起こしたという案内が入ります。
あなたは思わず安堵に浸ります。
「ああ〜、乗らなくてよかった〜」
しかしここで起きているのは何でしょうか。
それは電車が出て、プラットフォームにあなたがいる、ただそれだけのことです。
このようにマインドはあらゆることに意味を持たせ、ラベルを貼ります。
実のところ、あなたがお金持ちになろうが、職を失おうが、コップの水がこぼれようが、結婚しようが、道で転ぼうが、病気になろうが、ピザを食べようが、雨が降ろうが、死のうが、財布を落とそうが、それはそれ以上の意味はありません。
それらに意味を付け加えているのはマインドです。
マインドはものごとにラベルを貼り、意味を与え、物語を作ります。
やがてわたしたちはその物語の中で生きるようになります。

さらにマインドはより確実に生き残るために、人生そのものに意味や目的を与えようとします。
家族のため、子供のため、人のため、会社のため、社会のため、というようなことからはじまって、国家のため、地球のため、神のため、というような壮大な目的まで考え出します。
しかしそれがいかに意味ありげに見えても、すべての意味付けは単なる「マインドのおしゃべり」なのです。

「沈黙の聖者」と呼ばれたラマナ・マハルシの、瞑想についての美しい言葉があります。

ーーーーーーーーーーーーーーー
人は時において、その人生に満たされなくなり、自分の持っているもので満足できなくなり、神その他のものへの祈りをとおして、願望が満たされることを求める。
彼の心は少しずつ浄化され、神を知りたいと願うようになり、世俗の願望を満たすよりは神の恩恵を得たいと願うようになる。
そのとき神の恵みが現われはじめる。
神はグルの姿をとって帰依者の前に現われ、彼に真理を教え、それだけではなく彼と親密に交わることによって彼の心を浄める。
帰依者の心は強くなり、内面に向かうようになる。
瞑想によってそれはいっそう浄められ、わずかなさざ波もない静かさだけが残される。
その静かな広がりが真我である。
              —  ラマナ・マハルシ
ーーーーーーーーーーーーーーー

この世界を海に例えると、海底から海面までの様々なレベルがあります。
海底には、永遠に変化することのない「真我」があり、常に光り輝いています。この真我の本質は「至福」で、それは最も精妙なレベルにあります。
その海底から「マインド」が立ち現れます。
最初はほとんど認識できないレベルですが、上昇して海面に近づくほど大きな泡になっていきます。そして海面の「現象界」ではその大きな泡が弾けます。
この「現象界」が、私たちが普段体験している世界です。

波は、現れては消え、現れては消えを繰り返し、変化し続けます。それは最も粗大・粗雑な世界で、海底から立ち昇ってきた泡が弾ける騒音に満ちています。
このマインドという泡がすべての苦しみの原因です。

瞑想は、この波立つ現象界から、真我が輝く海底に向かって降りていく体験です。
そして真我に近づけば近づくほど、私たちは静寂になり、感覚が精妙になり、至福を体験します。
これが瞑想の本質です。
世の中には多くの瞑想法がありますが、ほとんどの瞑想法は単なる技法やテクニックでしかないために、多少の効果はあるものの、それだけでは降りていける深さには限界があります。
深く降りていき真我に近づくためには、大いなる存在「サムシング・グレート」からの「恩寵」が必要です。どんなに瞑想をしても「恩寵」がなければそこまでです。
これが無ければどんな素晴らしい経験も、それは単なる一時的な状態に過ぎず、またしばらくすると元のように戻ってしまいます。
それらの限界を超えるには「聖なるものの恩寵」が不可欠です。

【ディヴァイン瞑想】では聖なるものの「恩寵」によって、あなたをその深く精妙な次元へと誘います。
それゆえに、【ディヴァイン瞑想】を体験した方たちすべてに、これまでにない精妙なレベルの体験が訪れるのです。

インドで講義を受けていたときに、こういう講話がありました。
「もしあなたが大変な困難や苦しみ、喪失にあったとしたら、あなたには感謝しかないはずです」
 
それを聞いた僕は、
「いったい何を訳のわからないことを言っているのだろう?」
と思いました。
そこで講師が話された内容はこのようなものでした。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ある母親がいました。
彼女はまた医師でもありました。
彼女の子供が突然病気になり、高熱を出しました。
子供を治すにはとても痛い注射をし、苦い薬を飲ませなければなりません。
注射を打たれ、苦い薬を飲まされた子供は泣き叫びます。
母親は代わってやれるなら代わってやりたいと思います。
でも子供を病気から救って楽にしてあげるにはそうするしかないのです。
なるべく軽い痛みで済むように、そして早く病気が治るように祈りながら、母親は注射をし、苦い薬を飲ませます。
 
神さまも同じです。
あなたが間違ったことを考えているとき、よくない方向に行こうとしているとき、真我から遠ざかっているとき、いまだに間違った場所で幸福を追い求めているとき、そのようなあなたに痛みを与えないと、あなたは過ちに気がつきません。
気づきがないと、あなたには成長がありません。
神さまがあなたをもっと先に連れて行くことができません。
 
神さまがあなたの痛みや苦しみに気がつかないと思いますか?
あなたが苦しんでいるとき、痛みに耐えているとき、神さまはずっとあなたと一緒に苦しんでいます。
なぜなら、神さまが見ているのはあなただけだからです。
あなたの神さまには、あなた以外に、何もないのです。
 
もしそのことに気がついたならば、神さまが痛みを与えてくださったことに感謝できるのではないでしょうか。
そしてあなたの人生に起きているすべてのことに感謝する以外なくなるのではないでしょうか。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
なるほどー、と理解はしましたが、そのときはただそれだけでした。
 
そして帰国し、数年間がたったとき、僕はある事件で全財産を失いました。
後悔、痛み、恨み、絶望、悲しみ、苦しみ、そういったものが一気に押し寄せてきて胸が張り裂けそうになって、その場にへたり込みそうになりました。
 
そのときなぜか突然、僕はこの講話を思い出したのです。
その瞬間、まったく理屈に合わないのに、これまで感じたことのない感謝の気持ちが深いところから湧いてきたのです。
こんな悲惨な目にあった僕が何かに感謝をしているなんて・・・それはとても不思議なことでした。
 
そして今はもっとはっきりと、
「あのときすべての財産を失って、本当によかった」
と思います。
なぜならそのことがきっかけで、僕がすがってきた「お金」という呪縛から解き放たれ、ほんとうの幸福に目覚める最初の一歩が始まったからです。
 
人はよく
「感謝をしなさい」
と言います。
でも感謝とは、そのように心がけてするようなものでしょうか?
努力してするようなものでしょうか?
 
これは僕からのひとつの提案です。
これから一生、誰にも、何にも、絶対に感謝をしないと決めてください。
もしそれでも湧き上がってきて抑えきれない感謝があったとしたら、それだけが本当の「感謝」です。
ラマナ・マハルシはたくさんの動物に愛されました。
ラマナの動物の帰依者たちの中でも、最も可愛がられたのは牛のラクシュミーでした。
彼女はある人からラマナへの贈り物として、母親とともにまだ子牛のときに連れてこられ、町で牛を飼っている人に預けられました。
初めて会ったとき、その子牛はラマナにたまらない魅力を感じたらしく、あくる日から彼女はたったひとりで毎朝ラマナのアシュラムにやってきて、夕方になるとやっと町に帰りました。
後に彼女がアシュラムに引き取られて暮らすようになっても、彼女は毎日ラマナを訪ねました。周りの誰にも注意を払わず、彼女はまっすぐに彼のもとへ向かうのでした。
何年もの間、彼女はラマナが大食堂へ行くときのお供をするために毎日ホールへやってきました。
彼女は非常に時間に厳格で、もしラマナが何かに忙しく時間を忘れているときでも、彼女が入ってくると彼は時計を見て時間になったことを知るのでした。
アシュラムに石造りの牛小屋が完成したとき、その落成式にはラクシュミーが最初に入ることになっていました。しかし時間が来てもどこにも彼女は見あたりませんでした。
彼女はラマナのところへ行ってそのそばに横になり、彼が一緒に来るまで一歩も譲らなかったのです。
結局、ラマナが最初に入り、彼女が彼の後に続いて入ったのでした。
彼女がラマナに並外れて帰依していたというだけではなく、ラマナも彼女に対して恩寵と優しさを注ぎました。
 
月日が流れ、ラクシュミーは病気になり、彼女の最期が近づいていました。
ラマナが彼女のところへ行くと、彼は言いました。
「かあさん、私にそばにいてほしいかい?」
ラマナは彼女の横に座ると彼女の頭をひざにのせました。
ラマナは彼女の目を見つめ、ディクシャ(イニシエーション)を与えるかのように、彼女の頭とハートの上に手をのせました。そして彼は頬を彼女の頬に合わせて愛撫しました。
彼女のハートが清らかで、すべてのカルマから解放され、完全にラマナだけに心が定まっていることに満足すると、ラマナは昼食のために食堂へと向かいました。
ラクシュミーは最後の瞬間まで意識を保ち、彼女の目は穏やかでした。
僕のセッションに来られる方には、たくさんのスピリチュアルなメソッドを学んで来られた方が多くおられます。
チャネリング、風水、占い、透視、テレパシー、レイキ、クレアボヤンス、ヘミシンク、リーディング、降霊術、各種ヒーリング・・・etc.
そして皆さんが
「これだけたくさんのことをずっと長い間学んできたのに、いっこうに幸福になれない」
「すべての中心にある真実にいつまでたっても辿り着かない」
と言われます。
それはまさにそうだと思います。
なぜなら、それらスピリチュアル・メソッドと言われているものと、幸福になることや全ての中心にある真実とはそもそも「直接の関係がない」からです。
 
例えば、ヒプノセラピーという退行催眠療法があります。
この療法は大変素晴らしいものです。
僕は日本に初めてヒプノセラピーを紹介したリンダ・ローザ博士もよく知っていますし、このヒプノセラピーで癌などの難病が治った人を何人も見ています。
このように、病気が治り、苦しみが軽減されることは、そうでない状態に比べると幸福になるかもしれません。
しかし、ヒプノセラピーは療法のひとつであるように、他のスピリチュアル・メソッドも何かの改善や、何かの能力を与えてくれるかもしれませんが、それが必ずしも幸福と比例するわけではありません。
 
たとえば、何かのスピリチュアル・メソッドを身につけて、あなたに何か良いことが起きて幸福になったとします。
では、次にあなたが交通事故に遭って大怪我をすると、また幸福でない状態に逆戻りするのでしょうか。
それが治るとまた幸福になり、こんどは財産を失うとまた幸福でなくなり、財産を取り戻したらまた幸福になり、こんどは恋人を失うと幸福でなくなる、というように、失ったり、得たり、失ったり・・・を延々と繰り返すものが「ほんとうの幸福」だといえるでしょうか?
つまり、世の中にあるスピリチュアル・メソッドというのは、それがどれほど素晴らしいものであっても、その性質上「限定的なものごとの、一時的な改善に役立つ」というものなのです。
なぜなら、それらのメソッドはあなたが新たに獲得するものだからです。
新たに獲得するものは、あなたの本質ではありません。
 
一方、幸福とはあなたの本質である「真我」が持つ不変の性質です。
幸福とは真我のもうひとつの名前です。
あなたの本質が真我なのですから、それを得たり、培ったりする必要はありません。
あなたがしなければならないことは、真我でない他のものごとに注意を払うのをやめることだけです。
 
このことが僕が皆さんにお伝えしている「教え」の中核にあることです。
ですから、なにひとつ新たな能力を得る必要はなく、皆さんがすることは
「(おそらくこれまで誰も教えてくれなかった)不変の真実を知ること」
だけなのです。
 
その入口が、僕がインドでマスターから授かったディクシャです。
皆さんはこのディクシャを亜紀さんから受けることができます。
ディクシャでは、あなたがすることは何もありませんし、何かを努力して得る必要もありません。
あなたはただ「聖なる恩寵」を受け取るだけです。
このことにより、あなたがあなた自身の「真我」に目覚めはじめ、外的なものごとに一切左右されない「ほんとうの幸福」が自動的に、かつ例外なく始まるのです。
以前に亜紀さんからこういう質問がありました。
亜紀さんがディクシャをした方々から、
「何度もディクシャを受けたほうがいいのですか?」
という質問をよく受けるので、どのようにお答えすればいいでしょうか、というものでした。
 
ディクシャは一度受ければ、高次の「恩寵」が働き、他の方法では到達しづらい次元に自動的にシフトします。
それでも、もしできれば何度も受けるとさらに良いと思います。
例えればそれは藍染のようなものです。
藍染は布を藍の染料液に浸して、それを空気に触れさせて乾燥させますが、より美しい藍色を出すためには、染料につけては引き出して空気にさらすという作業を何度も何度も繰り返し行います。
同じように、ディクシャによって「恩寵」を受ければ受けるほど、あなたの到達した次元が定着し、あなたはより美しくなります。
 
ここでもうひとつお伝えしておきたいのは、ディクシャによって起きることは千差万別だということです。
亜紀さんは僕のディクシャを受けて、至福感で2週間起き上がれなかったと聞きました。
では誰もが同じような経験をするのかというと、人によってはまったく何も感じない方もおられます。
じゃあその方には何も起きていないのかというと、決してそうではありません。
その人に最適な速度で、その人にとって必要なことが必ず起きます。
ずっと何も変化がないと思っていたのに、何ヶ月か経って以前の自分を振り返ると、今が随分違った状態にあることを発見する方もおられます。
マインドは「体感を欲しがる」という癖がありますが、体感があろうがなかろうが、あなたは必ず「恩寵」を受けて変化します。
しかし何が起きるのかは僕にも亜紀さんにもわかりません。
なぜならそれを行っているのは、私たちの想像など及ばない「遥かに高次の意識」「大いなる存在」だからです。
 
また、
「HARUさんのセッションやディクシャを受ける機会はないですか?」
という質問も亜紀さんがよく受けられるそうです。
これについてもご説明しておきますと、多くのスピリチュアル・メソッドや宗教では、まず「教え」があり、それを学ぶことでその人の次元が変わることを期待します。
ところが僕がお伝えしている方法は、まず最初にあなたの次元が変わることから始まります。
それは脳神経が変容し、マインドが鎮まり始め、内なる空間の静けさに気づく状態です。
仮に「その状態」と言っておきますと、あなたを「その状態」にするのがディクシャです。
100年間ヨガや瞑想をしても「その状態」にはならないかもしれません。
でもディクシャは僅か1分間で「その状態」になります。
それはなぜかというと、人間という「被造物」の小さな小さな頭であれこれ考えて100年間修行をするのと、創造者の「高次の意識」からの恩寵を一瞬受けるのと、どちらが効果的かは比べるまでもないからです。
そして最初に「その状態」になっていただくことで、あなたは「教え」を容易に吸収できる状態になります。
ですので亜紀さんからは、ディクシャを受けた方にのみ僕の個人セッションのご案内をしてもらっています。
そしてディクシャを受け、僕のセッションを受けられた方は皆さん苦しみから解放され、これまで誰も教えてくれなかった「真の幸福」がある場所を知り、「その場所」に至る方法を知り、そして「その場所」に到達します。
これもまた僕の力などではなく、あなたをそこに導く「大いなる存在」の力なのです。
ディクシャをした人の中には、いろいろな事が起きた方がいます。
その中でも記憶に残っている人のことをお話ししようと思います。
 
もう十年以上前になりますが、その方は智子さんという40代の女性で、知り合いから頼まれてお会いしたのでした。
ホテルのロビーでお会いしてお話しを聞くと、3つのことで苦しんでいるということでした。
 
まず1つ目は、智子さんは5年ほど前に再婚されたそうですが、結婚当時はラブラブだったのが徐々に愛情も冷めて、いまはどうやら旦那さんが浮気している女性がいるらしいのです。この冷え切った関係に耐えられなくて、別れたいけれど子供もいるし、辛い毎日を送っているとのことでした。
 
2つ目の悩みは、小学生と中学生の男のお子さんがいて、ふたりとも数年前から不登校になっているそうです。理由はわからないけれど学校に行きたくないということで、最近はずっと部屋に引きこもり状態だそうです。
ただでさえ旦那さんのことがある上に子供たちは引きこもりで、家中が暗く冷え切っているんです、とやつれた顔でお話しされていました。
 
3つ目の悩みは、智子さんは子供の頃から人に見えないものが見えたり予知を感じたりするらしく、その能力を活かして、いまはタロット占いを生業としておられます。生来の能力があることも手伝ってすごく当たるので有名になり、特に最近は重い悩みを抱えた人が多いらしいのです。
たとえば相談に来たある女性は、妻子ある男性と付き合っていたけれど奥さんにバレて会えなくなり、その事が原因でリストカットし続けていていて、相手を殺して自分も死のうと思っているが、それはいつがいいか、というようなとんでもない相談だったり。
このように、聞いているこちらが暗くなるようなディープな悩みを抱えている人が次から次へと来るそうです。
 
これらの三重苦で、もう生きているのが辛くて苦しくて、どうしたらいいのかわからないということでした。
 
僕は悩み事の相談に乗ることはあまりないのですが、そのときはなぜか、
「ではひとつお聞きしますが、2つ目の、お子さんが不登校ということのいったい何が問題でしょう?」
と聞いたのです。
そうすると、智子さんはしばらくじっとしたままでしたが、やがてボロボロと涙を流されたのです。
どうしたのかと聞くと、
「これまで学校の先生にも家庭に問題があると言われていたり、近所からも気の毒そうな目で見られていたり、それらのことがずっと辛かったんです。でも、HARUさんにその何が問題かと言われたときに、心の奥底にある真実に気がついたんです。それは子供たちはただ不登校なだけで、そこには何も問題はない、ということでした。そうしたら子供たちへの愛情が溢れてきて、それを問題にしていた自分にこそ問題があるということに気がついたんです。そうしたら、子供たちに、ごめんね、ごめんね、という思いが溢れてきて、涙が止まらなくなったんです」
と言われたのです。
そして、そのあとディクシャをして差し上げました。
終わった後、どうですかと聞くと、そのときは特に何も感じないと言われました。
僕からは、
「何が起きるかは僕にもわかりませんが、おそらく必要なことが起きると思いますよ」
と言って別れました。
 
そして1週間ほどして智子さんと話す機会があり、その後どうですかと聞くと、開口一番
「世界が変わりました」
と言われました。
どうしたんですかと聞くと、ディクシャをした日の夕方から頭が締め付けられるように痛くなり、起きていられなくて旦那さんや子供には自分たちで何か作って食べてもらうように言って、倒れ込むようにベッドに入ったそうです。
そして翌日目が覚めると、自分のいる部屋が何かこれまでとまるで違って見えたそうです。
不思議に思ってしばらくそうしていると、智子さんの部屋に旦那さんがやってきていきなり土下座をし、お前をずっと裏切っていたことを許して欲しい、と言われました。
この人はいきなり何を言っているのだろうとビックリしたけれど話を聞いてみると、旦那さんは他に女性がいたけれど、智子さんを騙し続けていることに耐えられなくなって、そしてなぜか智子さんへの愛情が溢れてきて、思い切ってすべてを白状して謝ろうと決心したそうです。
それを聞いた智子さんは、普通なら怒りまくるはずが、なぜかこの人を許してあげようと素直に思えたそうです。
そしてそれから1週間たった今では、新婚当時の愛情が戻ってきて、また元のラブラブの状態に戻ったそうです。
 
そして数日後には、ふたりのお子さんが自分たちから学校に行き出したそうです。
どうしたの、と聞いても明確な理由もなく、なんとなく行ってみようと思って、と言うだけらしいのです。
 
そしてタロット占いですが、ディクシャの翌日から、重い問題を抱えた人はまったく来なくなったそうです。
それはまるでそこに結界が張られたように、ピタリとそのような人が現れなくなったそうです。
 
今回なぜこのようなことを書いたかというと、ディクシャを受けた人には、智子さんと等しく恩寵が降り注ぐということです。
人によってはディクシャを受けたけれど私には何も起きない、と言われる方がいます。
しかし高次の意識が人を差別するはずがありませんし、恩寵に多い少ないがあるわけでもありません。
必ず同じ恩寵が与えられます。
智子さんにはそのタイミングでそれが起きることが必要だったように、また別の人には必要なタイミングで必要なことが起きます。
それは、僕たちの小さな脳ミソで判断できる次元を遥かに超えています。
 
また多くの人は、世界が在ってその中に自分がいると思っていますが、実はその逆で、自分が在って世界があるのです。
世界も、人々も、神も、あなたの臨在の中に立ち現れているだけです。
ですから、恩寵によってあなたの次元が変わると世界は一瞬にして変わります。
その一例がこの智子さんでした。

僕が最初にインドに行ったとき、マスターが開口一番に言われたのは、このような言葉でした。
「あなたは決して幸福になることはありません」
幸福を求めてはるばるインドまで来た僕は、開いた口が塞がりませんでした。

マスターは続けてこう言われました。
「なぜなら、《あなた》があることが不幸なのです」

これは、後日知ることになるラマナ・マハリシの
「ただひとつの障害は、心である」
という言葉とまったく同じことです。

そしてマスターはこう続けました。
「だから、私は《あなた》を消します。
すると自動的に《あなたの不幸》はすべて消えます」
そしてディクシャをしてくださったのです。
こうして僕の真我実現への旅が始まりました。

《わたし》はマインドが作る、最大の幻覚です。
ラマナ・マハリシが言うように、マインドがあることが「ただひとつの障害」であり、それ以外の2つ目の障害はどこにもないのです。
ところが、私たちが行う試み、メソッド、テクニック、修行、努力はすべてマインドに支えられています。
だからそれを続ければ続けるほどマインドが強化され、苦しみが強化され続けます。
つまり、努力そのものが唯一の障害になるのです。

ですから、あなたが幸福になるためのただひとつの道は「明け渡し」です。
そして「恩寵」は「明け渡し」と比例します。
あなたがディクシャを受け、すべての努力を放棄し、自分自身で何かをすることを完全に諦めたとき、《あなた》は空っぽになります。
その空っぽになったスペースに「恩寵」が流れ込むのです。

《あなた》が今しがみついているものを手放してください。
最初にすべてを手放すことはなかなかできないと思います。
ですから、ひとつだけでもいいので、それを手放してみてください。
そうすると、確実に何かが変わり始めるはずです。

それが「苦しみの終わり」の始まりです。

マインドがすべての苦しみの原因だということはお話ししましたが、ではいったいマインドの何が苦しみを作っているのでしょうか?

それは「しがみつくこと」です。
私たちがしがみつくもの、それが私たちの苦しみそのものです。

私たちはたくさんのものにしがみついています。
お金、家、土地、車、家具、宝石、アクセサリーというようなモノから、家族、恋人、会社、仕事、趣味、健康、さらには空気ほどの実態もない、評判、成績、地位、名声、悟り、というようなものまで、ありとあらゆるものがしがみつく対象としてあります。
それらを得ることが幸福だと信じています。
それらを失うことが不幸だと信じています。
だからそれらを得るために、それらを失わないために多くの時間と労力を費やします。
ほとんどの人の人生とはそのようなものです。

しかし、真実はまったく逆です。
「しがみつくもの」が私たちを束縛し、「しがみつくこと」が不安や焦りを生み出し、悲しみや痛みを生み出します。
だから、しがみつくものがあなたを幸福にすることはありません。
それを手放したときにだけ、ほんとうの幸福があるのです。
しがみつくものをひとつ手放すごとに、あなたはひとつ苦しみから解放されます。

でも、それらを手放すことはとても勇気がいることです。
だからほんの少しだけでいいので、小さな何かを手放してみてください。
そのときあなたの中に、何やら不思議な、小さな安堵感が生まれるのを感じるでしょう。
それがあなたを苦しみから解放する第一歩です。
それがあなたを真の幸福に目覚めさせる第一歩です。

あなたに、ある聖者のとても美しい言葉を贈りたいと思います。

      ※
すべてを諦めなさい。
そうすればあなたはすべてを得るでしょう。

          ー ニサルガダッタ・マハラジ

HARUさんの教えに関するお問合せは下記メッセージフォームからお送りください。

HARUさんの教えや
【ディヴァイン瞑想】【ディクシャ】
に関するお問合せは下記
メッセージフォームから
お送りください。

    Produced by Divine Grace

    上部へスクロール