先日、亜紀さんからある聖者の言葉を教えてもらいました。
それはこういう言葉です。
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もし何も知りたくないなら、
あらゆるスピリチュアルな本が役に立つ
   ※

思わず笑ってしまいましたが、ほんとうにその通りです。
本屋に行くとスピリチュアルな本が棚いっぱいに並んでいます。
そのどれかの1冊でも、あなたを真の幸福に導いた本はあるでしょうか。
そしてすべての探究が終わった人がいるでしょうか?

私たちはいつも自分であれこれと努力をしています。
しかし実のところ、私たちは自分ではたった1回の心臓の鼓動さえ起こせません。
そして体の中で何が起きているのかをまったく知らなくても、何十兆の細胞は自動的に働き、私たちは自動的に生きます。
そしていくら望もうと努力しようと、私たちの意思とは関係なく、やがてその働きは終わります。
このように一瞬一瞬生きていること自体が、すべて「大いなるもの」の恩寵によるものです。
ところが、そのことは理解していても、この自分の意思とは関係なく働いている体を使って「生活すること」は、自分の意思でしないといけないと思っています。
または自分の意志でできると思っています。
それは何か奇妙なことではないでしょうか?
それはもしかすると、かなり滑稽なことではないでしょうか?

私たちには時折、そのことを知る機会が訪れます。
特に人生の中で悲劇的な喪失に出会い、その結果としてそのことに気づく人がいます。
財産や社会的地位、名声や名誉を失った人。
配偶者や子供、愛する人を失った人。
身体の一部や、機能の一部を失った人。
ところが不思議なことに、それが起きたときの苦しみや痛みに代わって、ふと深い安らぎや静謐を感じることがあります。
確かにこの安らぎは理屈に合わず、論理的でもないので、人は自分に問いかけます。
こんなに大切なものを失ったのに、なぜこのような不思議な安らぎを感じられるのだろうか、と。  
それはなぜかと言うと、それらにしがみついていたマインドが、あなたがしがみついていたものと一緒に崩落するからです。
そのとき、あなたは失ったものの後に残る《あなたそのもの=真我》に気づくのです。
 
それを感じたときからあなたは、この移ろいゆく世界には真の幸福はないことを感じ始めます。
そしてあなたの中で、あなたの内側を向くことが起きます。
あなたに強烈なダメージを与える何かが起こり、そのことがきっかけで、心は内側を向くのです。
これまで心が外側を向いて、もっともっとと物質的なものを欲しがる代わりに、心は内側を向いて、
「私とは誰か?」
「私はここで何をしているのか?」
「生きるとはどういうことか?」
とその本質を知りたいと思うのです。
こうやって目覚めのプロセスが始まります。
 
あなたという存在の幸福とは、何を所有しているとか、どんな能力があるとか、あれであるとかこれであるとかではありません。
あなたという存在の究極の幸福は、ただ「わたしは在る」なのです。
それを感じ始めたときから、あなたの《真我》の目覚めが始まります。

その目覚めが始まると、僕もそうであったように、あなたにもこの「教え」に出会うという恩寵が訪れます。
そしてあなたが望むなら、この「教え」は確実にあなたを《真我》の本質である幸福、決して失われることのない幸福のある場所に連れていきます。
そのときあなたの探究は完全に終わり、あなたはもう1冊の本も読む必要がなくなり、あなたは《真我》の中に溶けていきます。

そしてあなたは、あなたのいのちのダンスを踊り始め、あなたの幸福を生き続けるでしょう。

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